三島由紀夫が割腹したとき荻山幸子は小学校二年生だった。生首の写真が掲載されたグラビア雑誌の別の頁にポルノ解禁の記事が出ていたのをなぜか覚えているという。そのころバレエの先生から小牧正英の著書『ペトルーシュカの告白』を勧められ、読後の感想をきかれた荻山は、「ダンスはエロチシズム」と答えてまわりを驚かせた。たまたまその文句が心に残っていただけで、意味がわかっていたわけではないと彼女は言う。だが何も感じるところがなければ心に残るわけはない。多分彼女は予感していたのだ。それは生首のように存在感のある身体であり、いかなる法律も抑圧できないほど遺伝子に固く組み込まれた衝動であることを。
　 今日の舞踊界では、「エロチシズム」は手垢のついた言葉の一つになってしまっている。肌の露出、煽情的な小道具、性交を暗示する所作などに驚く観客はもう誰もいない。だが生首のような身体は滅多にない。媚薬のように深奥の衝動を解き放つダンスはさらに稀だ。私たちの文化はまだ「エロチシズム」を舞台に実現できるための様式をもっていないからだ。ここに荻山の試みの困難と意義とがある。その試みに私が期待しているのは、努力によっては補えない基本条件を彼女が幸運にも手にしていると思うからだ。それは容姿の美しさである。これは不謹慎な言いぐさだろうか。
　 舞踊を芸術作品として語ろうとする人は、振付の表現内容や構成について、またそれを実現するダンサーの表現力や技術については批評するけれども、その容姿を批評することは少ない。個人的容姿をあげつらうのはミーハー的関心であって、酒場での告白ならばともかく、公的な場で芸術を論ずるときの態度ではないとされているらしい。「彼の足は短かすぎる」とか「彼女は整形した方がいい」などと書くのは、文部省で「偏差値は公正 だ」と叫ぶのと同じくらい度胸がいるだろう。だが本当は誰もが気付いていることだが、身体の芸術である舞踊にとって容姿はしばしば決定的に重要である。たとえばジョルジュ・ドンや玉三郎がもし同じ技術と別の容姿をもっていたらと想像してみればよい。私たちは実はドンや玉三郎の踊りに感動していたのではなく、踊るドンや玉三郎の身体に感動していたのだということがわかるだろう。別の言い方をすれば、振付家の考案した表現内容にではなく、表現する踊り手の身体が分泌する魅力に捉えられていたのである。彼らの身体の存在感は生首に劣らない。
　 舞踊が振付家の芸術作品だというのは、実は近代の考え方である。むしろ伝統的には舞踊は、日常的な身体を非日常的な身体に転換し、その異様な力に観客が圧倒されるものであった。さまざまな伝統舞踊の様式とは、そのための手段である。たとえば荒事の型を演ずる団十郎の身体は、成田不動尊の呪力を放つだろう。あるいは地唄舞がそうだ。私はかつて武原はんの『雪』にただただ溜め息をついたことがあるが、それは女心の表現なんかのせいではなかった。女性の凄艶な美しさというものが洗練され、昇華され、超現実的な水準に達していたからである。容姿を美しく見せるだけなら素材次第で何とかなる。だが風姿の美しさは佇まいや身のこなしから匂いだすものであり、そのためには一種の虚構を作り出す芸の工夫が必要なのだ。日本だけではない。韓国舞踊にも、クラシック・バレエにも、美しい風姿のための様式がある。恵まれた容姿と様式の習練とが結びつけば、舞台の上にはときおり超現実的な美しい身体が現れることがある。
　 だが伝統の様式の中でこれを行うのは、既存の型の中へ自分の身体を流し込むことである。ある意味で楽な道だが、新しいものは生まれない。荻山は過去に日本舞踊、韓国舞踊、クラシック・バレエ、フラメンコを学んだという。だが彼女の身体はそのどれにも深く 浸った気配はない。彼女はその気になれば武原はんの道を歩むこともできただろう。だがエロチシズムをめざす彼女は、より強靱な存在感とより深い衝動を挑発する自身の様式を作り出そうとしている。それはセックス・シンボルと呼ばれた女優のように性的対象としての身体をさらすことではなく、男の意志を砕きその運命を支配する「女の力」を形象化し、受肉することである。彼女の身体が素材として恵まれているとはいえ、これはもちろん容易な道ではない。今なお試行錯誤の途上にある。その舞台は成功している場面と失敗している場面とがないまぜになっている。そして従来の舞踊の枠組から外れた時ほど成功の確立は高いようである。たとえば昨年フラメンコの名手ラウールを共演に迎えた時、彼に義理をたてた純フラメンコのシーンではラウールの一人舞台であったが、終幕のフラメンコの枠を外れた部分では、彼女の身体は優美と妖艶をえてラウールを圧倒していた。
　 荻山が舞台に立つとき、その風姿は既に独自の艶麗な世界を作ることができる。それだけでも、現在の舞踊界ではかなり魅力的なことだ。だが彼女の目標はさらに高く遠い。客席の男女の全てが生理的変化を抑えられぬような踊りをしたいと言う。他のダンサーが言えば品のない冗談だが、彼女が言うと自然の使命に聞こえる。そして彼女ならひょっとしてやるかもしれないなと思う。荻山幸子が最も美しいとき、舞台には媚薬の香りが漂うからである。